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男子厨房に入るべし

 2年程前から私は料理をセッセと作るようになった。それまで自分で作っていた料理と言えば、即席ラーメン(料理とは言えないか?)や野菜炒め程度であったが、一大発心をして料理に挑戦してみようと決意したのである。何故そんな決意をしたのかと言えば、間近に迫った定年退職後の第二の人生計画を真剣に考えた結果である。
 数年前までの私の「夢の第二の人生計画」(妄想と人は言う)はキャンピングカーに乗って日本列島縦断の旅をすることであった。春は桜前線と共に北上し、夏は北海道で過ごし、秋の紅葉前線と共に南下し、冬は沖縄あたりで過ごす。訪れる各地方では山の幸や海の幸から作られる特色ある郷土料理を堪能したり郷土芸能を鑑賞したりし、平家の落人部落では語り継がれる平家の悲しい物語を聞き、あるいは義経ゆかりの地では義経伝説を話す古老の話に耳を傾ける。そして夜はひなびた温泉の湯につかって1人静かに人生について考える。
 そんな生活を夢見ていたのであるが、昨今の年金問題でこの私の優雅なキャンピング生活計画は極めて困難な状況に陥ってしまった。将来の日本の厳しい年金財政下における哀れな年金生活者には快適なキャンピングカーを購入し、のんびりとドライブ旅行を楽しむことなど不可能なこととなったのだ。
 しからばどうするのか。田舎暮らしである。地方の過疎地の山里で民家や農地を借りて生活し、半自給自足の生活を送るのである。自分で食べる野菜・果物類は全て自分の土地(畑)で耕作し、空き地に地鶏を飼えば卵を産んでくれる。ヤギを飼えばヨーグルトやチーズを作ることもできる。丹精込めて作ったそのヨーグルトやチーズを近所の農家に持って行ってお米と物々交換してもらう。私は新潟の農家の生まれだから、そんな田舎暮らし生活をイメージすると百姓のDNAが目覚め、大いに血が騒ぐのである。
 しかしそんな田舎暮らしは1人ではあまりにも淋しい。都会育ちの妻はキャンピングカー生活にも田舎暮らしにも全く関心がない(というか嫌いである)ので、彼女をあてにすることはできない。しからば友を集めてグループホームを作ってはどうか。農園の中にグループホームを作って、午前中はみんなで野良仕事をして身体を動かし、午後はそれぞれの趣味を楽しむという生活である。
 定年を迎えた団塊の世代の男性の多くは田舎暮らしを考えているらしいから、「この指とまれ」と手を挙げれば、多分即座にかなりの人数が集まるはずである。
 そこで現実問題として、人が集まれば食べることが最も重要となってくるわけで、その重要な食事作りを他人任せにしておくわけにはいかない。発起人の自分がなんとかしなければならないであろう。と、まあ、そんな次第で「本格的な料理作り」にチャレンジしてみようと決意したわけである。
 インターネットで「男の料理」を検索したらローストビーフのレシピが出てきた。ローストビーフは私の好物のひとつであるので、週末にスーパーでローストビーフ用牛肉の塊を買ってきて、レシピを見ながら早速作ってみた。
 因みにそのスーパーとは、我が家から車で5分程度の所にあるカリディアモールというショッピングモールの中にある「ルル・スーパーマーケット」という大きな店である。そこは値段が安いのでアジア系出稼ぎ外国人達も多く利用しており、いつも買い物客で賑わっている。また、そのスーパーの惣菜コーナーには、インド、中国、フィリピン、エジプト等の国の出来合い料理が並んでおり、単身者にとっては誠に重宝する店である。私も以前はそこでよく出来合い料理を買ったものだ。インドカレー、モロヘイヤスープ(エジプト)、レモンチキン(中国)などなど。なお、自宅から車で15分程の海沿いにはマリーナモールという更に大きなショッピングモールがあり、そこにはカルフール店が「これでもか」という程に大規模なスーパーマーケット(レジの数が50台以上ある)を出している。
 さて庶民の味方のルル(真珠の意)スーパーマーケットで買ってきた肉の塊に、調味料・香辛料として塩、黒コショウ、きざみニンニクをすり込んだ後、オリーブオイルをたらして熱したフライパンで肉魂の全面をジュウジュウと焼いてうま味を閉じこめ、その後は250度に熱した電気オーブンに投入して約20分焼き上げる。
 アツアツの肉汁がしたたり落ちるローストビーフをオーブンから取り出すと、辺りにはニンニクとスパイスが絶妙にミックスした食欲をそそる香ばしい匂いが漂い、私は我慢できずアツアツの肉魂を輪切りにしてかぶりついた。それが想像を超えて殊の外旨かったのである。
「こんなに簡単に、こんなに美味しいローストビーフが出来るのか!」
私はジューシーな味わいのそのローストビーフを噛みしめながら、しばらくうっとりした気分で感動にひたっていたのであった。
 この思いがけない悦楽を味わったことにより、その日から私は料理作りの虜になった。そしてその後、食べたい料理レシピをインターネットで検索しては、週末になると色々な料理作りに挑戦するようになったのである。
 ローストビーフ、ラムチョップ、鶏の丸焼き(グリルドチキン)そしてトンカツ作りなどした後に挑戦したのが魚料理であった。自宅から車で15分程度のところにあるミナザーイドという港があり、そこにフィッシュマーケット(魚市場)があって、毎朝新鮮な魚介類が入荷される。料理の修業を始めた日本人の私としては、そこの魚がどの程度のものか確認する必要がある。従って週末の朝には魚を吟味するため、そのフィッシュマーケットに通うのが私の日課となった。
 その市場の中には大きなサメなどが並べられていたりしてギョッとするが、当地で一番人気のある魚はハムールという白身魚である。大きいものは80cm程になるが、レバノンレストランなどの人気店では30~40cmサイズのものを炭焼きグリルにして出し、日本レストランでは刺身等で出される。だがこの魚は比較的高価なので私はあまり買わない。私がもっぱら買うのは、マグロ、鯛、エビ、(以上キロ約700円)、アジ、キス、イカ、アサリ(以上キロ約500円)、イワシ、イケガツオ(以上キロ約250円)などである。
 新鮮なものを選べばほとんどの魚が刺身で食べられるが、綺麗な刺身に仕上げるには華麗なる包丁さばきを修行する必要があり、今のところ私ができるのはアジのたたき程度である。その他は煮たり焼いたりして食べているが、エビやキスなどは天ぷらで揚げると美味しく食べれるし、イケガツオは干物にして焼いて食べると珍味である。またイワシは安い上に毎日食べるとボケ防止になるというので、梅煮にしたり酢漬けにしたりして食べている。
 私の好物の一つのカレーライス作りにも挑戦しているが、日本のカレールーに頼らず現地(インド製)のスパイスを使って自分好みのカレーに仕上げようとすると、なかなか奥が深く面白いものである。また甘い物も好物であるので、スイーツ作りにも当然チャレンジしている。「温泉まんじゅう」が食べたくて何回も挑戦したが、何回やっても「温泉もんじゅうもどき」しかできない。その点、漬け物などは比較的簡単であるので、各種野菜をぬか漬けにしたり、あるいはキムチ漬けなどにして毎日食べている。
 このように色々な料理に挑戦し、友人知人を招いて時々味見をしてもらっているが、次第に評価も上がってきているようであり、それを励みとして、計画している第二の人生の農園型グループホームに、仲間のみんなが喜んで集まってくるような美味しい料理を提供することができる料理長を目指して更に精進したいと思っている昨今である。
 なお、最後に指摘しておきたいことは、アブダビは料理の修業(自己研鑽)をするのにかなり良い条件であるということだ。この国にはアジア系を中心の多くの人種・民族が生活している関係で、多様な食材が廉価で売られており、例えばインドカレーの香辛料はスーパー等で10種類以上売られているし、肉類ではラム(羊肉)や鶏肉などが安価で旨く、また野菜や果物類も多種多様である。タイ料理のトムヤンクンやグリーンカレーの食材(レモングラス、タイしょうが、各種調味料等)もスーパーで売られているので、思い立ったら即座に食材を調達することができる。
 また、調理で使用するガスレンジ・電気オーブン等の光熱費は日本と比べれば格段に安く、電気・ガス代を気にしないで何回でも試作品をつくることができる。おまけにインターネットで検索すればどんなレシピでもたちどころに画面に懇切丁寧に表示される便利な世の中なわけで、時間とやる気さえあればいくらでもチャレンジできるのである。
 いずれにしても、専門家の分析によれば高齢男性のぼけ防止のためには料理をすることが効果的であり、また人間の欲望で最後まで残るのが「おいしいものを食べたい!」という食欲だそうで、人生を最後までエンジョイしたいと願う男は、料理の腕を磨く努力を死ぬまで行うべきであるということが理論的にも裏付けられるのである。

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山の神様おんび

 集落の家々が深い雪に埋もれる東北の厳寒2月に、赤いほっぺの鼻水を垂らした小学1年生の子供が、お社(やしろ)に祀(まつ)られている御神体を背負って集落の家々を巡っていた。その光景は微笑(ほほえ)ましくも切なく、そしてなんと凄まじいものであるかと私には思われた。
 日本各地には様々(さまざま)な独特の風習があるが、これなどはその中でも特筆すべきものであろう。
 山形県月山(がっさん)の麓、西川町大井沢に伝わる、「山の神様おんび」という風習(伝統行事)がそれである。その風習をNHKのテレビ(「還ってくる雪」)が紹介していた。
 大井沢の山神社(さんじんじゃ)という小さな社(やしろ)に、男女2体の御神体が祀られているのだが、神社の祭礼日である2月16日に、その2体の御神体を集落の小学生の子供達が交代で背中に担ぎ、家々を回って村人(むらびと)に拝んでもらうのである。その男女2体の御神体は、元々はお地蔵さんであったらしいが、古くから山の神様として崇められており、子供の無事と健康と成長を祈る神様となっているという。
 頭からすっぽり頭巾と衣類にくるまれたその御神体は、その日になると、ランドセルを一回り大きくしたような古い木箱に一体づつ入れられて、そして小さな子供達の背中に担がれて雪に埋もれた家々を巡る。
 集落32軒の家々を巡る道程は約7kmであるという。2月の雪がシンシンと降る中を、子供達が御神体を運んで行くと、村人達はお餅とお賽銭を供え、そしてその山の神様に手を合わせる。そしてその時に、村人達は神様を背負うその小さな子供の背中にもじっと手を合わせる。
この行事は、集落の子供達が一年無事に成長したことを祝う儀式なのだそうだ。
 その昔は、この地域では子供が命を落とすことが多かったという。その地の冬は積雪が2メートル以上となり、家々は雪の中に埋もれて陸の孤島となった。急病人が出ても看てくれる医者はそこにはいない。周りの険しい雪山を越えて行かねば、病人を手当してくれる者はいなかった。風邪を引いて高熱を出した幼子(おさなご)を母親は泣きながら抱きしめる他、術(すべ)がなかった。天候不順で田んぼが不作の時には食べる米がなく、母親の母乳が出なくなった。そんな時、村人達はオロオロと涙を流し、そしてひたすらに神に祈るしかなかったのである。そんな厳寒の陸の孤島で、多くの子供達が命を落としたという。それ故に、村人達は子供が生まれると、我が子の無事と健康と成長をただひたすらに神仏に祈ったのだそうだ。
 しかしそれにしても、集落の家々が深い雪に埋もれる東北の厳寒2月に、小学1年の子供が御神体を背負って集落の家々を巡るというその行為は、ただ事ではない。子供ながら凄まじい修行に思える。
 人間は試練に遭遇した時、あるいは不幸のどん底に落とされた時に、目の前に神様がいるのであれば、その神様にすがりつき、両手で抱きしめたいと思うのではないだろうか。山の神である御神体を子供に背負わせるという行為は、それに似ているように私には思われる。
 大井沢はかつて出羽三山で修行する修験者達の宿坊として栄えた地域だそうであるが、あるいは、ある時に修験者の1人が神の啓示のようにそのような「山の神様おんび」というものを考えついたのかもしれない。
修行にも似たその行事がいつから始まったのは分からないが、おそらくその集落が大変な試練に遭遇した時であったに違いない。御神体を子供に背負わせて家々を巡るなどということは、尋常では考えもつかないことである。しかしその試練の時から、そしてその神を子供達が背負った時から、その集落には本当の山の神が宿ることになったのである。
 子供が背負う御神体に向かって、いや御神体を背負う全ての子供に向かって、家々の大人達がひたすらに手を合わせて祈る。なんと神々しい光景であろうか。
その祈りの姿の中に山の神が存在するのである。そんな子供達を山の神が護らないはずがない。そしてそんな村人(むらびと)を神様が見捨てるはずがない、と私は思うのである。

 その村では、子供や孫が生まれると、親や祖父母達は子供の無事と健康と成長を祈願して、「鐘の緒」を神社に奉納するしきたりがあるという。「鐘の緒」というのは、生まれた子供の誕生月日と名前を書いて神社の鐘に結ぶ細長い布のことであり、神社にお参りするたびに、その緒を引いて鐘を鳴らすのだそうだ。母親や祖母が夜なべをしながらその布を縫い、そして父親や祖父が祈りの中で墨を擦り子供の名前をそこに書くのである。
 更に大井沢地蔵堂では、夏の祭日に女性達が集まって手に持った小さな鈴を鳴らし、御詠歌を唱える「地蔵様の祭り」という行事がある。そのお堂にも、それぞれの親達が奉納した「鐘の緒」が鐘にしっかりと結ばれている。
 そしてまた、子供が生まれるとそれぞれの家では自宅の周りに誕生記念として桜などの木を植樹する。子供や孫やひ孫が生まれるたびに、親たちは木を植え水をやる。その家は子供と木の成長と共に歴史を刻んで行き、やがて大人達は、大きく立派に成長した家の周りの木々を眺めながら、心穏やかに暮らすことになる。

 東北山形の寒村大井沢には、そんな心温まる世界が残っている。家族の絆(きずな)の芯とも言うべき最も大事なものがそこにあるように思う。
 しかし他方で、農業以外にこれといった産業の無いその地は、若者達が農村を離れて過疎地となり、子供の数が激減してしまった。4年前まで大井沢地区にあった小中学校は廃校となり、集落で暮らす7人の子供達は今では20kmも離れた町の学校にスクールバスで毎日通っているという。
 であるがゆえに、その7人子供達は大井沢の大事な大事な宝物なのである。その宝物を、村人達は昔と変わぬ姿で慈しみ育てている。そんな素敵な集落がまだ日本にあったのだ。なんと有り難いことであろうか。
 子供の無事と健康と成長をひたすらに祈る、この「山の神様おんび」が続く限り、その集落には神が宿り続けることであろう。
 そんな所に私も住んでみたいものだ。

平成の歌姫

 苦難の年であった平成23年が暮れ、新たな年が始まった。平成24年というこの新しい年はどんな年になるのだろうかと、正月三が日、私はそんなことを考えて過ごした。
 日本人にとってこの新しい年は、まさに新たな勇気と希望を持って歩かねばならない年であると言える。だが日本中が今、目に見えない将来の不安の中で暗い顔で暮らしている。そんな日本人に勇気と希望を与えることができるのが歌の力である、と私は思う。そんな思いを抱いて大晦日の紅白歌合戦を観たのであるが、大いなる物足りなさを覚えた。
 東日本大震災で甚大な被害を受けた東北地方の人々に、いずれの歌い手も激励の思いをこめて一生懸命唄っていた、が、それらを見終わった後に、なんとも言えないむなしさと共に、大きな物足りなさを覚えた。この物足りなさは何だろうと考えている私の胸に、「中島みゆきがどうしてそこにいないのか」という思いがこみ上げてきた。
  
 彼女が唄う「地上の星」を聴くたびに、己(おのれ)の魂がグラグラと揺さぶられるような思いがする。地の底から地鳴りのように歌い上げる彼女のあの歌は、聴く人の魂を覚醒し、そして厳しい人生に挑む勇気を与えてくれるであろう。あの歌を聞いた者は悲嘆の涙をぬぐって敢然と立ち上がり、そして前を向いて一歩一歩と歩き始めるであろう。その歌はオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続183週ランクインするという驚異的記録を打ち立てたが、まさに我々日本人の人生の応援歌であると言える。

 中島みゆきという歌手は、「平成の歌姫」なのであろうと私は思う。その歌姫が、最近「命のリレー」という歌を唄っている。この歌は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の物語をイメージして、東日本大震災の後に彼女が作った歌だそうだ。  
 その歌の中で、彼女はこう唄う。

 虫も獣(けもの)も人も魚も
 透明なゴール目指す 
 次ぎの宇宙へと繋ぐ
 この一生だけでは辿(たど)り着けないとしても
 命のバトンを掴(つか)んで
 願いを引き継いでゆけ!

 後段3行のフレーズを、彼女は3回繰りかえして唄っている。これでもか、これでもかと唄い続ける。まるで大震災で亡くなった方々の鎮魂歌のように・・・・。
 思えば、宮沢賢治の魂の探求は法華経(仏教)にたどり着いたのだった。

 紅白歌合戦で彼女がこの歌を熱唱する姿を観てみたかった。圧倒的存在感で「命のリレー」を唄い上げる中島みゆきを、日本全国の人々と共に聴き、観てみたかった。感動を味わってみたかった。そしてこの目にしっかりとその姿を焼き付けてみたかった。明日への勇気の糧として・・・・。
 日本の歴史に残ることになるこの年の紅白に、NHKはどうして平成の歌姫・中島みゆきを選ばなかったのか。誠に残念無念である。

楽園探しの旅

 私は明年1月で61歳になる。あと2年で定年退職だ。定年後の第二の人生を指折り数えて日々暮らして来たのであるが、昨今の年金問題を知れば知る程、私のような年金生活予備軍の将来は真っ暗闇であると言わざるを得ない。
 要するに年金などもはやアテにならないのである。文化的で健康的な生活ができる、いわゆる基本的人権が保障されるレベルの生活費(年金)が、黙っていても死ぬまで毎月銀行に振り込まれるなどというのは、夢物語だったのである。そもそもそのような夢物語のような事を信じていた私が全く甘かったのだ。
 しからばどうしたら良いのか。答えは一つだ。死ぬまで自給自足の田舎暮らしをする意外方法はない、と私は考えるのである。不幸中の幸いと言うべきか、日本には放棄農地が埼玉県の広さほども有るという。その中には過疎地となった里山や、一人暮らしの老人などが住む限界集落と言われる山間地域が含まれるわけだが、それらの地域でさえ、中東やアフリカなどの貧しい国土(土壌)の国と比較すれば、いずれもどれほど豊かな土地であるかは明々白々である。日本には至る所に清らかな水があり、そして充分な太陽がある。どの地においても沢山の野菜や果物を作ることができる。要するに、日本にはその気になりさえすれば田舎暮らしのための土地は十分にあるということである。まさに「国破れて山河あり」というべきかも知れない。

 年を取ってからの田舎暮らしは大変であろう、と人は言う。確かに大変であるに違いない。しかし80歳、90歳になる老人老婆が、その大変な所で現実に生活しているのである。限界集落とは言え、電気・水道は通じており、老人福祉の行政サービスもなんとか整備されている。コンビニなどは無いかも知れないが、そんなものは昔はどこにもなかった。冬は寒かろうというが、山には暖房用の薪になる木が腐るほどある。要は家の暖房設備をちゃんと整えて、準備さえしておけば良いのである。
 それ以上に、山のすがすがしい空気を吸い、きれいな湧き水を飲み、春には山菜を摘みに行き、そして秋には愛犬と共にマツタケやキノコなどを探しに山野を巡るという生活はさぞ楽しかろう。近くに温泉場があれば申し分ない。最近は中高年の間で登山がブームであるというが、山歩きの好きな人には山間地でのそんな田舎暮らしも面白いのではないだろうか。また山歩きができる人であれば、家庭菜園を少し大きくした程度の畑を耕作することなども体力的に充分に可能と思われるし、その野良仕事自体が健康増進となり、ボケ防止となるのである。
 私は新潟の田舎の農家の生まれなので、田舎暮らしの不便さは良く分かっているつもりだ。また畑での野菜作りや田んぼでの米作りの苦労も良く知っている。従って、その田舎暮らしの不便さと自給自足生活の苦労を可能な限り軽減させる方法を考え対策を立てる必要がある。そして、それらを補って余りある楽しい生活環境を気の合う仲間と共に作り出す必要がある。そうでなければ第二の人生を田舎で始める意味がない。長年夢にまで見てきた第二の人生を、田舎で寂しく朽ち果てさせてしまうわけにいかないのである。そんなことになっては私は死んでも死にきれない。そのような決意と覚悟の基に、私は田舎暮らしの最適地を探し続けている。

 私の取り敢えずの田舎暮らしイメージは、100坪程度の畑と300坪程度の果樹園がある農家である。竹林(竹藪)などがあれば更に良い。また住む家は古民家で結構。庭先に地鶏やヤギなどを飼って絵になる風景がよろしい。そんな環境の中で、気の合う仲間と共にグループホーム的な生活をしたいと思っている。
 多くの友人知人に遊びにきてもらわなければならないので、場所は知り合いが多く住んでいる関東エリア(東京、横浜)に近い方が望ましい。そのような物件をインターネットの田舎暮らしサイトで探している。
 
 千葉、埼玉、群馬、長野に好物件がいくつかあるが、しかしいずれも売買物件である。大いなる決意と覚悟で臨んでいるとは言え、この年になって不動産を購入するということを考えると、「ちょっと待てよ」という声が聞こえてくる。過疎地の物件は都会と比べれば格段に安いが、それでも私がイメージしている田舎暮らし物件を手に入れようとすると1千万円以上は必要である。有り金(退職金)をはたいてその物件を手に入れるのは少し冒険過ぎるであろう。
 今のところ田舎暮らしを夢見て少年のように張り切っている自分であるが、しかし実際のところ住み始めてみなければどうなるかは分からない。想像するよりも現実は数倍厳しいと考えておいた方が良いであろう。初めて住む場所であれば余計に予期せぬ事が色々と起こるものだ。いわゆる想定外というやつだ。よって取り敢えずは試験的に暮らしてみる必要があり、まずは賃貸農家でしばらく生活する方が賢明であると考える。
 「年を取ってきたので、もう耕作するのは無理だ。誰かに貸して耕してもらえないだろうか。先祖代々の土地を赤の他人に売るのもしのびないし・・・」
 と考え、日夜悩んでいる高齢農家も多いはずである。そのような農家の畑や果樹園を借りて、その農家の人から農業指導を受けながら田舎暮らしを始めるというのが、無理のない移住計画と考えられる。そしてそこでの田舎暮らしが軌道に乗り、家主(農場主)と気心が知れるようになったところで、物件譲り受けの相談をさせて頂くというプロセスになる。場合によっては、超高齢となったその家主さんと共に田舎暮らしをすることになるかもしれないが・・・・。
 しかしそのような都合の良い賃貸農家というのは今のところ全く無い。インターネット上には毎日のように新しい田舎暮らしの売買物件が出てくるが、賃貸物件は皆無に等しい。賃貸ものなどを扱っても不動産屋さんはもうからないし、手間暇がかかって大変ということかも知れないが、私のような事を考えている人は他にも沢山いるはずなので、いずれ田舎暮らし事情に明るい人に相談して諸々の可能性を探ってみたいと思っている。

友への手紙

 緑の国の日本から砂漠の国アブダビに戻り1ヶ月が経ちました。日本での日々を思い出しながらこの手紙を書いております。

 先日の一時帰国の際、約10年振りに新潟に帰郷しましたが、色々と考えさせられました。
 今回初めて関越自動車道で新潟入りしましたが、越後山脈の長いトンネルを抜けると、やがて越後平野の遙か彼方に我が故郷の懐かしい弥彦山と多宝山が見えてきました。その山容が目に入った時に何故か目頭が熱くなりました。故郷の山が静かに私を迎えてくれていました。本当に懐かしく思いました。
 小学校や中学校に通う時に毎日眺めた山並みです。田植えや稲刈りの時に腰を休めながら仰ぎ見た山々です。今から思い起こせば、春は新緑、夏は深緑、秋は紅葉、そして冬は白雪と、その山は四季折々に美しい風情を持ってそこにたたずんでいました。
 「ふるさとの山に向かいて言うことなし。ふるさとの山はありがたきかな」
 という詩を石川啄木が残しましたが、あの山々を見たときに、小生の胸にもそんな思いが湧いてきました。自分はあの地で育てられたのだなと改めて思いました。

 僕は今まで、世界の色々な国を見てきましたが、日本人ほど向上心を持って一生懸命働く民族はいないのではないかと思います。
 アジアの小国にも拘わらず、日清、日露の会戦に勝利した我が国は、第一次世界大戦で列強の仲間入りをして戦勝国の一員となり、第二次大戦では米国を敵にまわして戦いました。更には敗戦後30年で日本はなんと世界第二の経済大国にまで成長しました。こんな凄い国はないと私は思っています。いや日本を知る世界の識者はみんなそう思っています。
 今年の春先には千年に一度といわれる甚大なる地震と津波が東日本を襲い、更にそれに追い打ちをかけるように原発事故が発生して放射能汚染が拡散しました。テレビに映し出されるその信じがたい光景の数々はまるで悪夢を見ているようでした。
 そのことによって我が国の経済と社会は深刻なダメージを受けたわけですが、世界の人々の日本を見る目は以前と全く変わりません。日本の評価が下がるどころか、世界の通貨の中で日本の円が益々高くなっています。
 「日本はどんなことがあっても大丈夫だ。日本は必ず復活し更に成長する」
と、世界の人達はそう思い、そして信頼してくれているのです。

 そんな日本に生まれ住む我々は、もっと自信を持って生きるべきなのだと思うのです。細かいことにいちいち目くじらを立てず、世間の評判に一喜一憂せず、「何とかなるさ、死にはしないさ」「冬は必ず春となる」と、時々あの不動の山々を眺めながら、焦らずこころ穏やかに生きたらいいのだと思うのです。

 僕も今年還暦を迎えましたので、そろそろ日本に帰ろうと思っています。首を長くして待っている母がおりますので、今までの親不孝を挽回するためにも早く帰って、どこかの田舎で一緒にのんびりと暮らしたいと思っています。


(あとがき)
 この手紙は今年9月に同郷の友人に出したものですが、最近母のことを思い出すことが多く、この手紙を読み返しました。この手紙で書いた新潟への帰郷は母を連れての二人だけのドライブ旅行でした。故郷のひなびた温泉宿にも母と共に泊まり、親子水入らずで過ごしました。母とのこの帰郷は私にとって誠に思い出に残るものとなりました。                                                                                         


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