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楽園探しの旅

 私は明年1月で61歳になる。あと2年で定年退職だ。定年後の第二の人生を指折り数えて日々暮らして来たのであるが、昨今の年金問題を知れば知る程、私のような年金生活予備軍の将来は真っ暗闇であると言わざるを得ない。
 要するに年金などもはやアテにならないのである。文化的で健康的な生活ができる、いわゆる基本的人権が保障されるレベルの生活費(年金)が、黙っていても死ぬまで毎月銀行に振り込まれるなどというのは、夢物語だったのである。そもそもそのような夢物語のような事を信じていた私が全く甘かったのだ。
 しからばどうしたら良いのか。答えは一つだ。死ぬまで自給自足の田舎暮らしをする意外方法はない、と私は考えるのである。不幸中の幸いと言うべきか、日本には放棄農地が埼玉県の広さほども有るという。その中には過疎地となった里山や、一人暮らしの老人などが住む限界集落と言われる山間地域が含まれるわけだが、それらの地域でさえ、中東やアフリカなどの貧しい国土(土壌)の国と比較すれば、いずれもどれほど豊かな土地であるかは明々白々である。日本には至る所に清らかな水があり、そして充分な太陽がある。どの地においても沢山の野菜や果物を作ることができる。要するに、日本にはその気になりさえすれば田舎暮らしのための土地は十分にあるということである。まさに「国破れて山河あり」というべきかも知れない。

 年を取ってからの田舎暮らしは大変であろう、と人は言う。確かに大変であるに違いない。しかし80歳、90歳になる老人老婆が、その大変な所で現実に生活しているのである。限界集落とは言え、電気・水道は通じており、老人福祉の行政サービスもなんとか整備されている。コンビニなどは無いかも知れないが、そんなものは昔はどこにもなかった。冬は寒かろうというが、山には暖房用の薪になる木が腐るほどある。要は家の暖房設備をちゃんと整えて、準備さえしておけば良いのである。
 それ以上に、山のすがすがしい空気を吸い、きれいな湧き水を飲み、春には山菜を摘みに行き、そして秋には愛犬と共にマツタケやキノコなどを探しに山野を巡るという生活はさぞ楽しかろう。近くに温泉場があれば申し分ない。最近は中高年の間で登山がブームであるというが、山歩きの好きな人には山間地でのそんな田舎暮らしも面白いのではないだろうか。また山歩きができる人であれば、家庭菜園を少し大きくした程度の畑を耕作することなども体力的に充分に可能と思われるし、その野良仕事自体が健康増進となり、ボケ防止となるのである。
 私は新潟の田舎の農家の生まれなので、田舎暮らしの不便さは良く分かっているつもりだ。また畑での野菜作りや田んぼでの米作りの苦労も良く知っている。従って、その田舎暮らしの不便さと自給自足生活の苦労を可能な限り軽減させる方法を考え対策を立てる必要がある。そして、それらを補って余りある楽しい生活環境を気の合う仲間と共に作り出す必要がある。そうでなければ第二の人生を田舎で始める意味がない。長年夢にまで見てきた第二の人生を、田舎で寂しく朽ち果てさせてしまうわけにいかないのである。そんなことになっては私は死んでも死にきれない。そのような決意と覚悟の基に、私は田舎暮らしの最適地を探し続けている。

 私の取り敢えずの田舎暮らしイメージは、100坪程度の畑と300坪程度の果樹園がある農家である。竹林(竹藪)などがあれば更に良い。また住む家は古民家で結構。庭先に地鶏やヤギなどを飼って絵になる風景がよろしい。そんな環境の中で、気の合う仲間と共にグループホーム的な生活をしたいと思っている。
 多くの友人知人に遊びにきてもらわなければならないので、場所は知り合いが多く住んでいる関東エリア(東京、横浜)に近い方が望ましい。そのような物件をインターネットの田舎暮らしサイトで探している。
 
 千葉、埼玉、群馬、長野に好物件がいくつかあるが、しかしいずれも売買物件である。大いなる決意と覚悟で臨んでいるとは言え、この年になって不動産を購入するということを考えると、「ちょっと待てよ」という声が聞こえてくる。過疎地の物件は都会と比べれば格段に安いが、それでも私がイメージしている田舎暮らし物件を手に入れようとすると1千万円以上は必要である。有り金(退職金)をはたいてその物件を手に入れるのは少し冒険過ぎるであろう。
 今のところ田舎暮らしを夢見て少年のように張り切っている自分であるが、しかし実際のところ住み始めてみなければどうなるかは分からない。想像するよりも現実は数倍厳しいと考えておいた方が良いであろう。初めて住む場所であれば余計に予期せぬ事が色々と起こるものだ。いわゆる想定外というやつだ。よって取り敢えずは試験的に暮らしてみる必要があり、まずは賃貸農家でしばらく生活する方が賢明であると考える。
 「年を取ってきたので、もう耕作するのは無理だ。誰かに貸して耕してもらえないだろうか。先祖代々の土地を赤の他人に売るのもしのびないし・・・」
 と考え、日夜悩んでいる高齢農家も多いはずである。そのような農家の畑や果樹園を借りて、その農家の人から農業指導を受けながら田舎暮らしを始めるというのが、無理のない移住計画と考えられる。そしてそこでの田舎暮らしが軌道に乗り、家主(農場主)と気心が知れるようになったところで、物件譲り受けの相談をさせて頂くというプロセスになる。場合によっては、超高齢となったその家主さんと共に田舎暮らしをすることになるかもしれないが・・・・。
 しかしそのような都合の良い賃貸農家というのは今のところ全く無い。インターネット上には毎日のように新しい田舎暮らしの売買物件が出てくるが、賃貸物件は皆無に等しい。賃貸ものなどを扱っても不動産屋さんはもうからないし、手間暇がかかって大変ということかも知れないが、私のような事を考えている人は他にも沢山いるはずなので、いずれ田舎暮らし事情に明るい人に相談して諸々の可能性を探ってみたいと思っている。
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友への手紙

 緑の国の日本から砂漠の国アブダビに戻り1ヶ月が経ちました。日本での日々を思い出しながらこの手紙を書いております。

 先日の一時帰国の際、約10年振りに新潟に帰郷しましたが、色々と考えさせられました。
 今回初めて関越自動車道で新潟入りしましたが、越後山脈の長いトンネルを抜けると、やがて越後平野の遙か彼方に我が故郷の懐かしい弥彦山と多宝山が見えてきました。その山容が目に入った時に何故か目頭が熱くなりました。故郷の山が静かに私を迎えてくれていました。本当に懐かしく思いました。
 小学校や中学校に通う時に毎日眺めた山並みです。田植えや稲刈りの時に腰を休めながら仰ぎ見た山々です。今から思い起こせば、春は新緑、夏は深緑、秋は紅葉、そして冬は白雪と、その山は四季折々に美しい風情を持ってそこにたたずんでいました。
 「ふるさとの山に向かいて言うことなし。ふるさとの山はありがたきかな」
 という詩を石川啄木が残しましたが、あの山々を見たときに、小生の胸にもそんな思いが湧いてきました。自分はあの地で育てられたのだなと改めて思いました。

 僕は今まで、世界の色々な国を見てきましたが、日本人ほど向上心を持って一生懸命働く民族はいないのではないかと思います。
 アジアの小国にも拘わらず、日清、日露の会戦に勝利した我が国は、第一次世界大戦で列強の仲間入りをして戦勝国の一員となり、第二次大戦では米国を敵にまわして戦いました。更には敗戦後30年で日本はなんと世界第二の経済大国にまで成長しました。こんな凄い国はないと私は思っています。いや日本を知る世界の識者はみんなそう思っています。
 今年の春先には千年に一度といわれる甚大なる地震と津波が東日本を襲い、更にそれに追い打ちをかけるように原発事故が発生して放射能汚染が拡散しました。テレビに映し出されるその信じがたい光景の数々はまるで悪夢を見ているようでした。
 そのことによって我が国の経済と社会は深刻なダメージを受けたわけですが、世界の人々の日本を見る目は以前と全く変わりません。日本の評価が下がるどころか、世界の通貨の中で日本の円が益々高くなっています。
 「日本はどんなことがあっても大丈夫だ。日本は必ず復活し更に成長する」
と、世界の人達はそう思い、そして信頼してくれているのです。

 そんな日本に生まれ住む我々は、もっと自信を持って生きるべきなのだと思うのです。細かいことにいちいち目くじらを立てず、世間の評判に一喜一憂せず、「何とかなるさ、死にはしないさ」「冬は必ず春となる」と、時々あの不動の山々を眺めながら、焦らずこころ穏やかに生きたらいいのだと思うのです。

 僕も今年還暦を迎えましたので、そろそろ日本に帰ろうと思っています。首を長くして待っている母がおりますので、今までの親不孝を挽回するためにも早く帰って、どこかの田舎で一緒にのんびりと暮らしたいと思っています。


(あとがき)
 この手紙は今年9月に同郷の友人に出したものですが、最近母のことを思い出すことが多く、この手紙を読み返しました。この手紙で書いた新潟への帰郷は母を連れての二人だけのドライブ旅行でした。故郷のひなびた温泉宿にも母と共に泊まり、親子水入らずで過ごしました。母とのこの帰郷は私にとって誠に思い出に残るものとなりました。                                                                                         


母を恋うる詩(うた)

母親とは誠に有り難いものである。
日本に住む母は、一人息子の私のことを遠くからいつも心配してくれている。
「暑くはないか」
「風邪はひいてないか」
「ちゃんとご飯は食べているか」
と、母はいつも心配してくれている。
母は90歳になる老婆であるが、私が50歳になろうが還暦を迎えようが、いつまでも心配なのである。
母の愛は海より深いというが、これほど私のことを心配し、無事を祈り続けてくれている存在がこの世にあろうか。

人間の心の一念、祈りというものは時空を超えて通じて行くと言われる。
人間にのみ許されたその崇高な行為は、不思議なエネルギーとなって三千世界の諸天善人を動かすという。
我々凡夫の目には見えないが、永遠(無始無終)にして無限のこの宇宙には、人智を超えた不思議な力が存在するのだろう。
90歳になる田舎育ちの老婆には、そんな難しいことは分からない。
だがしかし、それが生きる支えでもあるかのように、日々ひたすらに息子の無事を祈り、そしてその帰りを待ち続けている。
これほどまでに私の帰りを待ち焦がれている人もいないであろう。

なんと有り難い存在であろうか。そしてなんと申し訳ないことであろうか。
そんな母に私は心から感謝しなければならない。そして今までの親不孝を詫びなければならない。
この世での母の残されている時間はもうあまり長くない。
早く帰りたい。
早く帰って母と共に過ごしたい。
私を慈しみ育ててくれたその皺だらけの手を取って、とりとめのない思い出話をして日々を過ごしたい。
そして「これからはずっと一緒だよ」と、母の痩せた肩を抱いてそう言ってあげたい。

それが今の私の願いである。

殿ご乱心

 大きなショックを受けた。松平健が唄っている「マツケン・マハラジャ」をテレビで観た時である。彼があの歌を唄っている姿は、はっきり言って「なさけない!」の一言である。歌の最後の部分のあの卑猥な腰の動きは何だ!。インド人の格好で、あのような歌を喜々として唄い踊る彼の姿は、私の中では「常軌を逸した異常な行動」と規定さぜるを得ない。彼はいつからあんなコメディアンのようなことをやるようになってしまったのか。あんな事をやって彼は嬉しいのか?
 以前、彼が「マツケンサンバ」を唄い出した時は、「暴れん坊将軍」が「バカ殿様」になってしまったかと思ったものだが、この「マツケン・マハラジャ」におよんでは「狂ったバカ殿様」になってしまったと言うしかない。更にはその歌を唄ったマツケンを、歌謡番組の司会をしていたNHKのアナウンサーが、「元気が出る素晴らしい歌を有り難うございました」と褒めちぎる。まさに「世も末」と言わざるを得ない。まるでピエロのような姿であのような歌を唄い踊るその姿を、かつてのマツケンファンはどんな思いで観ているのだろうか。
 「大震災で沈滞ムードの中の日本人に元気を出してもらいたい」と、その歌を唄う意義を彼はコメントしていたが、マツケンは大きな勘違いをしていると言わざるを得ない。あれは浮かれた男の馬鹿騒ぎの歌であって、あんな歌で誰が希望と勇気を得られるというのかと、私は思うのである。
 彼はかつて一世を風靡した暴れん坊将軍なのである。その彼が、「今の日本の人々に勇気と希望を与えるパフォーマンスは何か」と真剣に考えたら、決してあのようなレベルのパフォーマンスは出来ないはずである。

 このマツケンと対極にあるのが裕次郎の生き方であろう。かつてNHKが裕次郎に紅白歌合戦に是非出てくれと懇願しても、頑として受けなかったそうである。その理由は、「俺の本業は俳優だ。歌手ではない」ということだった。そして裕次郎は、映画人としての更なる高み(価値ある映画を作ること)を目指し続けたのである。我々は裕次郎のそんな潔い生き方に深い感銘を受け、そして自分自身の生き方と重ね合わせるのだ。
 日本の時代劇スターであるマツケンは、もっとまっとうなパフォーマンスができるはずである。「さすが松平健である」と世の人々が感動するようなパフォーマンス(生き方)ができるはずである。何を目指しているかによって、その人の生き方は決まり、その人の人間的大きさも決まってしまう。より大きな存在感のある人間になることを目指し、その修行に励むところに、役者としての彼の更なる飛躍があると思うのだが、・・・・・。
 裕次郎に限らず、高倉健にしても、里見浩太郎にしても、杉良太郎にしても、そして渡辺謙にしても、トップスターとなった人達は、それぞれが役者としての精進の日々続けてきたし、そして今でも続けているはずである。それがプロフェッショナルの世界なのである。プロフェッショナルとはその道に徹して生きる人のことをいうのだ。そのような生き方をした人達が、後世(こうせい)に語り継がれる人物となって行くのである。
 あの歌を唄っているマツケンの頭に冷たいバケツの水をぶっかけて、「あなたの役者としての志(こころざし)はどこにあるのか?」と、一度問うてみたい。きっと彼は目を白黒させて、その問いの意味さえ理解することができないであろう。そんな人間にはもはや役者をやり続ける価値はない。他の役者の方々に失礼である。いずれ「役者の神様」の怒りに触れることになるであろう。即刻役者をやめてお笑い芸人にでもなった方が良い。お笑い芸人になってあの「マツケン・マハラジャ」を心おきなく唄い踊れば良いのだ。  
 NHKよ、一生のお願いである。大晦日の紅白歌合戦に間違っても「マツケン・マハラジャ」は出さないでもらいたい。この世の末の光景を私は観たくないのだ。

裕次郎命

 凄いドラマである。熱い、いや熱すぎる男達のドラマである。石原裕次郎の人生を描いた「弟」という物語の事である。最近私はそのDVDを5年ぶりに観た。
 この物語は兄の慎太郎氏が、裕次郎との兄弟愛や石原家の家族愛、そして裕次郎とその仲間との同志愛的とも言うべき交流を描いたものであるが、私が最も感動したのは、裕次郎を一途(いちず)に慕うその男達の姿であった。大きなスケールで生きる裕次郎の人間的魅力に取り憑かれた純情一路な男達が、「裕次郎わが命(いのち)」と一念を定め、裕次郎の夢に向かって共に走り、共に喜び、そして共に泣いた。そんな熱い熱い男達の人間ドラマに私はただただ感動した。信じがたい程の感動ドラマである。
 「裕次郎のためなら死んでも良い」と心定めた一番弟子の渡哲也、小政(こまさ)と呼ばれた大番頭の小林正彦、そして情熱カメラマンの金宇満司らの純情一路な男達が生み出す感動ストーリーは、涙無くしては観れない物語である。
 裕次郎を「わが命」とする男達の同志的結束によって連帯された石原プロダクションは、凄まじいまでエネルギーとパワーを生み出すことになり、やがて石原プロは、畏敬の念を以て石原軍団と呼ばれるようになった。
 石原裕次郎は昭和の映画史に残るスーパースターであることは論を待たない。が、映画界のスーパースターとは云え、これほどまでのパワーとエネルギーを生み出す男の集団を誕生させるに至った事実に、今、私は改めて驚嘆している。
 昭和という時代を、裕次郎と共に生きた我々団塊世代の男性諸兄には是非とも観て欲しい、また読んで欲しい物語である。

 裕次郎はデビュー作となった太陽の季節(昭和31)から最後の作品となる零戦燃ゆ(昭和59年)までの28年間に110本余の映画に出演しているが、日活のドル箱スター時代の昭和32年から35年の4年間には49本もの映画に主演し、ほぼ毎月1作のペースで映画を撮っていた。裕次郎が主演した映画の観客動員数は黒部の太陽の730万人を筆頭に、陽のあたる坂道670万人、紅の翼640万人、嵐を呼ぶ男600万人、明日は明日の風が吹く530万人、俺は待てるぜ510万人、錆びたナイフ490万人、狂った果実470万人、勝利者400万人と続く。ピークであった昭和33年(1958年)には1年間でなんと3千万人の観客動員を記録している。
 また映画の主題歌として裕次郎が歌った曲のレコード売り上げ数について見てみると、100万枚のミリオンセラーだけでも、銀座の恋の物語335万枚、二人の世界285万枚、赤いハンカチ275万枚、夜霧よ今夜もありがとう253万枚、俺は待てるぜ195万枚、錆びたナイフ184万枚、俺はお前に弱いんだ175万枚、夜霧の慕情163万枚、ブランデーグラス155万枚、夕陽の丘143万枚、北の旅人125万枚という、とんでもない売り上げ数となっている。ちなみにその他に50万枚以上売り上げた歌が6曲あり、全てを含めたレコード売り上げ数は5千万枚にのぼるという。

 正直に言えば、私は裕次郎の映画はほとんど観ていない。私が小学生の頃に既に日活でスーパースターとなっていた裕次郎の映画は、新潟の片田舎の小さな映画館でも週末になると上映されていたと記憶しているが、その頃の私は裕次郎の映画を観に行くという年代ではなかった。
 家出をして東京に出てきた高校時代に、テレビやラジオから流れてくる「錆びたナイフ」や「赤いハンカチ」の歌が気に入って、夜になると近くの公園で一人で歌っていた思い出があるが、しかし更に正直に言えば、私は若い頃の裕次郎の一連の映画を決して面白いとは思わない。ストーリーは単純であり演技も荒削りで決してうまいとは言えないと感じている。どうしてあのような映画が大ヒットしたのかと私には不思議に思われたくらいだ。
 石原軍団にしても、あの渡哲也がどうして裕次郎の子分になったりするのかと以前は不思議に思っていたものだ。しかし後年、裕次郎とその仲間達との間に生まれた数々の感動的エピソードを知り、そして裕次郎の素晴らしい人間性とその人間的スケールの大きさを知るに及んで、私の裕次郎評は一変することになった。

 ところで、裕次郎の映画が大ヒットしていた昭和30年代の東京には、集団就職で地方から出てきた何百万人という若者が必死で働き生きていた。彼らの多くは休日になると映画館に行って裕次郎の映画を観たことだろう。映画を観た青年達は、自分が裕次郎になったような気分で映画館から出てきた。そしてスクリーンの中で大活躍する裕次郎から元気と勇気をもらった彼らは、また次の日からそれぞれの夢に向かって必死に生きたのである。
 その事を考えると、次々と大ヒット映画を世に送り出し、日本の多くの青年達にエネルギーを送り続け、夢を与え続けた裕次郎という男は、その時既に、映画スターという枠を超えた存在になっていたのかも知れない。ただの格好いい青春映画スターではなく、時代のヒーローとも言うべき存在になっていたのではないか。信じられない程の驚異的な映画観客動員数やレコード売り上げが何よりの証拠である。
 演技が荒削りなどと生意気な酷評したが、裕次郎のファンあるいは信奉者にとっては、そんなものはどうでも良かったのである。裕次郎がスクリーンの中に登場するだけで、それで良かったのである。それはまさに彼の圧倒的存在感がなせるところなのであろう。

 我が日本が厳しい戦後復興期を乗り越え、高度成長の坂を懸命に登り始めたあの時代に、裕次郎という人物が誕生したという意味を、私は今、静かに考えている。
 彼の登場は時代の要請であったと云える。時代の要請ということは、人知を超えた偉大なる存在の意志の力によるものとも言い換えることができるだろう。そうであるが故に、裕次郎はあれほどに輝き、その輝きに魅せられた石原軍団の男達は狂ったように彼を求めてきたのだ。
 石原軍団のメンバーは裕次郎が挑んだ夢に向かって共に一途に走り続けた益荒男(ますらお)達である。誠に羨ましい男達である。そんな彼らに私は嫉妬さえ覚える。
 しかしそんな希有な人物が登場し活躍したその時に、私は日本人として同じ時代の空気を吸い、同じ時代の風を感じ、同じ時代を体験することができた。そして彼らの感動ストーリーを目撃することができた。私はその幸運を、今、じっとかみしめている。

トルコのラストサムライ

 エーゲ海に面する商業都市イズミルで私を待っていたのは、トルコ人合気道家のシアン青年であった。彼とは2年半ぶりの再会である。2009年の夏にアメリカから合気道家の本間学館長(日本館総本部)がアブダビに指導に来られた際に、館長の愛弟子であるシアン君がイズミルから駆けつけてきたのであった。その時の彼の印象は好青年の一言であった。
 今回のトルコ旅行について「トルコへ行くのであれば是非イズミルへ行った方がよい。イズミルにはシアンがいる」という本間館長の強いアドバイスで私はそこへ行くことにしたのであった。米国コロラド州デンバーに合気道場を構え、世界をまたにかけて指導に飛び回る本間館長とは、私がデンバーで生活した時(2005~08年)に知り合い、その人間的魅力に強く惹かれ、以来お付き合いをさせて頂いる方である。ちなみにトムクルーズに似た風貌のハンサムなシアン君を、「トルコのラストサムライ」と本間館長は呼んでいる。
 そのシアン君が真っ先に案内してくれたのが、半年前に開設したという合気道道場であった。その道場はアパート(団地)が建ち並ぶイズミル市郊外の新興住宅地にあった。100平米程のその道場は合気道場としてはさほど広いとは言えないが、30歳のトルコ青年が初めて自分の力で立ち上げた道場としては誠に立派なものである。弟子はまだ35人程度(子供が約20人)というが、彼の人柄とその熱意があれば、いずれトルコを代表する道場となって行くであろう(現在イズミル市には他に2つの合気道道場がある由)。
 イズミルに3日滞在した間に、シアン君には色々な場所を案内してもらった。一番びっくりしたのはエフェス遺跡であった。イズミルからエーゲ海沿いに南へ車で1時間半ほど走ったところにあるその古代都市遺跡には、古代ローマ時代に建てられた大理石遺跡があちこちにゴロゴロしていた。聖母マリアが晩年住んだという住居跡や、猛獣と人間が決闘したという野外大劇場跡などが残っており、そんな所に自分が立っているということが誠に不思議であり、妙な感覚を味わったものだ。
 しかし最も印象的であったのは、翌朝ブランチに連れて行ってもらった郊外の農園レストランであった。そのレストランはミカン畑の中にあり、沢山のミカンが朝陽を浴びて緑の葉の中で輝いていた。そんなのどかな農園レストランのメニューは、農場で獲れた野菜や果物そして鶏卵や乳製品を使った家庭料理であり、新鮮な食材を使った素朴な料理はとても美味しかった。もともとそのミカン農家の家族が納屋を改造して始めた農園レストランであるので、値段も安い。エーゲ海に近いその畑の中のガーデンレストランには、平日の朝であったが家族連れのお客さんが数組きており、のんびりとのどかに食事をしていた。
 「あーーー気持ちが良いーーーーー」
 とても気持ちが良いので、シアン君を目の前にして私は何度もそう小さく叫んでしまった。
 あまりにも気持ちが良いので、翌朝も違う農家レストランに連れて行ってくれと彼に頼んだ。次ぎに彼が案内してくれたのは、少し内陸に入った松林の山の中にある牧場レストランであった。市内からハイウエイを利用して30分程でそのようなところに着く。数軒並んでいる牧場レストランの入り口には、ジーパン姿の若い娘さんなどがにこやかな笑顔で「こちらにどうぞ」と案内していた。
 その中でも最も素敵な笑顔の娘さんが立っていたレストラン駐車場に、我々は躊躇無く車を入れ、そこでブランチを取ることにした。男というのはこのような素敵な女性の笑顔に全く以て弱いのである。
 さて、そこでのブランチも誠に気持ちの良いものであった。山間の松林を渡るそよ風と明るい陽光の下で私たちは食事をした。「命(いのち)の洗濯」という言葉があるが、人生の垢が蓄積し、様々な汚れがこびり付いてしまった私の命が、この時ばかりは少しきれいになったように感じた。
 食後に松林の小道を散策しながら、シアン君がこんな話しをした。
 「この辺の山には野豚が沢山いて作物を荒すので農家の人は困っています。私たちはムスリム(イスラム教徒)なので豚肉を食べません。そのため野豚が繁殖するのです。そこで最近、政府は野豚狩りを奨励し駆除を試みています。私の友人にハンターがいて、夜になると時々その野豚狩り出かけます(野豚は夜になると餌を求めて人家周辺に没するという)。捕った野豚は自分で捌いて薫製にし外国観光客に売ります。ギリシャ人やロシア人観光客などには、それがなかなか人気があるようで結構売れるそうです」

 その話を聞いて私の頭に一つのアイデアがひらめいた。ここで育つ野豚は美味しいにちがいない。放し飼い状態でこの山のなかに棲息しているその美味しい沢山の野豚は、政府推奨の取り放題状態であるという。ならば定年後は、いや定年を待たずして狭い日本を離れてこの辺の農家民宿に仲間と共に宿泊してのんびり生活し、時々運動がてら野豚狩りにでかけてはどうだろうか。捕った獲物はハムやソーセージあるいは薫製にして非ムスリムの観光客にサービス価格で売る。それは結構な小遣いになるに違いない。何しろ元手(飼育費等)がほとんどかからないのである。
 年金だけでのんびりと生活するなどというのは、現在の日本の財政状況から言えば夢のまた夢である。レジャーと実益を兼ねての「イズミル野豚狩りサバイバル生活」は刺激があって面白そうだ。その生活が軌道にのればトルコに定住しても良いではないか。住む物件探しはイスタンブールのあの姫君に頼むとしよう。それから野豚と格闘することもあるかもしれないので、シアン君に弟子入りして合気道を習ったほうが良いかもしれない。
 御同輩諸兄!「善は急げ」である。早くしないと豚料理が大好きなあの中国人達にこの山の野豚たちが食べ尽くされてしまう。

イスタンブールで出会った姫君

 3年半ほど前から私は中東の湾岸国のひとつであるアラブ首長国連邦に住んでいる。石油産出国でとても金持ちの国だ。世界的経済危機もこの国には関係ないようで、この都市(アブダビ)の街中には超高層ビルがあちこちで建設中である。
 ところで、11月上旬(2011年)の犠牲祭休暇(イスラムの祭日)を利用してトルコのイスタンブールとイズミル(エーゲ海に面する町)を私は旅した。初めてのトルコ旅行でもあり、色々と印象に残る体験をしたのだが、今回は、イスタンブールで出会った姫君について書きたいと思う。

 イスタンブールで私が泊まったホテルは旧市街の中にあり、トプカプ宮殿(歴代スルタンの王宮でハーレムがあったことで有名)にごく近い小さなホテルであった。そのホテルに日本語を話す女性スタッフがいるのでなにかと都合が良いという知り合いからのアドバイスと紹介で、そのホテルに泊まることになった。
 投宿した翌朝、朝食を食べるため地階にある食堂に下りて行くと、うら若きトルコ女性がコーナーのソファーに腰かけて日本人の宿泊客と笑顔で談笑していた。
 〈なるほど、彼女が例の日本語を話すホテルスタッフであるか〉と推測し、彼女の様子などを観察してみた。歳の頃は20代後半と思われ、かなりの美人であり、スタイルも良い。そして日本語もペラペラと話している。
 小生(にわかに卑屈な表現となる)の好奇心はムラムラと膨張し、皿に盛られた焼きたてのトルコパンなどを食べながら全神経を彼女に集中させることとなった。
 先客の年配日本人(後で聞いたところではどこかの大学教授であるらしい)が部屋に戻ったので、小生は早速彼女の近くに席を移して話しを始めた。
 「あなたのような美人がどうしてここで働いているのですか?」
 「このホテルのオーナーが私の父なので、色々と手伝っています」
 「それにしても、あなたの日本語はとてもお上手ですね。日本に留学したことがあるのですか?」
 「いいえ、日本には留学した経験はありませんが、日本から来る大学の先生に日本語を教えてもらいました。イスタンブールには学術書を扱う古書店が多くあり、中東研究者が世界各地から来ています。私が10歳の時に日本から若い素敵な先生が来られました。その先生が日本語を教えてくれました。今では日本のことが大好きで、源氏物語は3回読みました。とても面白いです。源氏物語を読むと、書かれている情景が目の前に浮かんできます」
 ギリシャ人の血が入っているのではと想像される気品ある顔立ちの彼女は、にこやかに微笑みながらそんな話しをした。
 「ふーむ、なるほど。僕が思うに、あなたの前世(ぜんせ)はきっと日本のどこかのお城のお姫様であったかも知れませんね。おそらく江戸時代頃の・・・」
 「いいえ、私は平安時代の頃だと思います」
 「・・・・・・・。」

 このような次第で、私の小さなハートは、目の前のその魅力的な姫君に、がっちりとわしづかみにされてしまったのであった。
 正直なところ、イスタンブールでこんな素敵な女性に巡り会うことになるとは想像もしていなかった。恋に飢える憐れなオジンのために、神様がそのように計らってくれたとしか思えない出来事であった。
 その姫君は毎朝その食堂に来て宿泊客の話し相手になったり、あるいは色々な相談にものってくれるという。なんと喜ばしきことではないか。そのような事はめったにあるものではない。その日からの私の朝食タイムは、その幸運の女神様と共に過ごすこととなった。
 彼女の本業は父親が経営する旅行会社のマネージャーで、日本から来る観光客の国内ツアーなどのお世話をすることだそうだ。最近は観光旅行以外のビジネスで色々と相談を持ちかけられるようになった由で、1週間後には日本からくる不動産関係の実業家を案内して国内の物件を色々と見て回るそうだ。トルコの政情は安定しており、経済も順調に発展してきているので、同国の不動産市場はこれからかなり魅力的であるらしく、中東の産油国からの投資も最近は急上昇しているという。今ならエーゲ海沿いのリゾート地では3LDK程度の中古ビラ(別荘)が400万円くらいで買えるそうであり、南の地中海側に行くともっと安い穴場の物件があるという。

 さて、この機会にトルコの素晴らしさについて少し書きたいと思う。この国の北側は黒海、西側はエーゲ海(対岸はギリシャ)、そして南側は地中海に面する三方を海に囲まれた海洋国家であり、従って魚介類は豊富である。また東側はコーカサス地域に連なり、日本の二倍の面積を有する国土のその肥沃な大地からは豊富な農産物が獲れる。この国の食糧自給率はなんと100%だそうだ。
 イスタンブールやイズミル(エーゲ海に面するトルコ第3の都市)には魚専門レストランが沢山あり、新鮮な魚料理(ほとんどが塩焼きだが)をリーズナブルな値段で食べることができるし、フェリーの船着き場周辺などにはサバサンド(鯖のサンドイッチ)専門の屋台があり、脂ののった塩焼きサバのサンドイッチを気軽に食べることができる。このサバサンドは日本人観光客に人気だそうだ。
 その土地の農産物がいかなるものかは、そこの市場に行くと良く分かるが、豊富な野菜・果物が所狭しと並べられているイズミルの市場では、あらゆる野菜・果物類が1kgあたり1~2ドルで売られていた。魚介類もその程度の値段です。
 乳製品や肉類も豊富である。市内の食料品店には数十種類のチーズやハム・ソーセージなどが並んでいる。生チーズなどを試食したがいずれもとても美味しかった。北の黒海沿岸には豊かな牧場があり、そこでそれらの製品が作られているという。トルコ料理は世界三大料理の一つを言われているが、目の前の豊富な食材を眺めながら「なるほど」と私は納得した。
 トルコの更なる魅力は、国内各地に数多くの歴史的名所旧跡があることであろう。西のエーゲ海沿いの古都市にあるローマ時代の大理石遺跡群は言うに及ばす、内陸には洞窟都市と言われるカッパドキアなどがあり、いずれも世界遺産に登録されている(世界遺産に登録されている場所がなんと9カ所もある)。そもそもイスタンブールはビザンツ帝国(東ローマ帝国)そしてオスマン帝国時代を通じて1500年間帝都として栄えた歴史があり、その名をコンスタンティノープル、イスタンブールと変え今日に至っており、この都市の旧市街全体も世界遺産に指定されているのである。
 またイスタンブールは、アガサクリスティの「オリエント急行殺人事件」の舞台となったことでも有名であるが、かつて西のロンドンを始発としたオリエント急行の東の終着駅がここイスタンブールであった。そしてヨーロッパとアジアの両文化(文明)が交わる街と言われるこの都市の、その東西の境目がこの地にあるボスポラス海峡である。その海峡には東西大陸を結ぶ大橋が日本の支援で架けられている。

 泊まったホテルから歩いて15分程でそのボスポラス海峡が見える丘に登ることができた。その丘はトプカプ宮殿に隣接したギュルハネ公園の中にあり、眺めの良い丘の上にはひなびたガーデンカフェがあった。すっかり葉が黄色くなった公園内のプラタナス並木を歩いて毎朝その丘のカフェに行った。
 丘の上のカフェに着くと、私は海峡を一望する席に腰を下ろし、そしてオーダーした熱いトルココーヒーを飲みながら、幾多の民族興亡の激しいうねりが通り過ぎたその海峡を眺めた。歴史に名を残すその海峡口周辺には、貨物船が列を成していた。黒海に通じ、そして東欧、ロシア及びコーカサス諸国に通ずるそのボスポラス海峡は、今では海の大動脈として重要な海路となっているのだ。

 11月上旬のイスタンブールは既に晩秋であった。湾岸の砂漠の国から来た私にとって、そこは別天地のようであった。枯葉がヒラヒラと舞う公園の並木道や石畳の電車通りを、物思いにふけりながら歩いてホテルに戻ると、食堂には温かい朝食が用意されており、そしてあの姫君がにこやかに待っていた。興味つきないトルコの歴史や文化などを、その素敵な女神様と話をすることができた。彼女と過ごしたその朝の時間は、私のトルコ旅行の中で最も印象に残るのものとなった。
 出発の朝、思い出に彼女とツーショットの写真を撮った。にこやかに微笑む姫君とのその写真は、今、アブダビの私のデスクの上に飾られている。その写真を眺めながら彼女と最後に交わした会話を、その澄んだ瞳と共に私は時々思い出している。
 「これから大きく発展する可能性のあるこの国で、あなたは将来何をしたいと思っているのですか?」
 「私の日本語はまだまだ足りませんので、もっと勉強したいと思っています。そして日本の人達と協力してもっと大きなビジネスをやりたいと思います。トルコはまだ色々な問題や課題を抱えています。自分の力はまだ小さいので、もっと色々な経験を積んで実力をつけ、応援してくれる仲間と共に大きな目標にチェレンジして行きたいと思っています」
 イスタンブールの姫君は、明るく微笑みながら凛としてそう語った。 
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